
泳法に統一されていない。当時の背泳ぎを推し量る上で、貴重な資料となっている。
競技種目として認知され、しばらく時が経ったはずの1928年に発刊された木下東作・寺岡英吉による『體育辞典』の中には、背泳ぎが「救助または、長距離遊泳に適している」と解説され、競技として論じられることはなかった。その上、図6のようにストローク時には、上半身全体を可能な限りローリングするものとした。呼称こそバックストロークあるいはスイミングオンサバックとしたが、局面的には、むしろ、日本泳法の一つである熨斗泳に近い型である。
当時の背泳ぎ観は、次のような複数の論評を見ても判断できよう。
前述の中野は、「仰向けになって泳ぐ背泳ぎは、日本では余り発達(普及)しない。ある水泳場では禁止したぐらいである」とし、当時の背泳ぎの地位が高いものではなかった事実を物語っている。
京田武男は、「背泳ぎは、日本では、類をもたざるものである。競技用として外人の好奇心の発展によって、編み出されたものであろう」とし、岩野忠次郎は、「背泳ぎの唯一の利点は、浮きやすく疲労が少ない点である。不利の点は、真っ直ぐ泳ぎにくく、速度が遅い。」とそれぞれ背泳ぎを軽視し、存在価値が低いとでも言わんばかりのニュアンスで扱き下ろしている。当時の背泳ぎ種目の上位選手の中にクロールの選手が複数いたことから、背泳ぎはクロール泳者の副業的種目とみなされたり、クロール泳で成功しない者が専門とする泳ぎともいわれた。
このように、日本では1910年頃以降、世界でバッククロールストロークが普及していく過程と対照的に、背泳ぎの存在価値も相変わらず低く、普及しないかに思われたが、地道に普及し、浸透していた。
1932年第10回五輪ロサンゼルス大会では、日本の清川・入江・河津の3選手が金銀銅を独占することになる。日本トリオの泳ぎは、「クロールと

図6 1920年代の我が国における背泳ぎ
木下東作、寺岡英吉:體育辞典、目黒書店(1928)より
同じく脚の動作を重視し、ビートによって推進力を得、腕をリラックスして滑らかに泳ぐ、日本式クロールの裏返し泳法」であった。また、この頃、フィニッシュ時に手で水を下に押さえるかどうかで議論されていたという。下方向へフィニッシェするべきだと主張した者は、それによって身体が浮くと説明している。これまで背泳ぎの存在価値が議論され、欧米から遅れをとっていた日本の背泳ぎ界であるが、この日本トリオの活躍は、日本の五輪競技史上、歴史に残る出来事となった。
1980年前後からは、日本の背泳ぎ界でも水中のドルフィンキックが開発者バサーヨの名にちなんで“バサロキック”と称され、幅広い層の選手達に取り入れられた。中でも1988年ソウル五輪では、鈴木が水中ドルフィンキックを駆使し、1932年以来56年ぶりに金メダルを獲得した。昨年行われた、アトランタ五輪でも日本は、男女ともに入賞を果たしている。
5. 背泳ぎ記録の推移
ここでは、1968年度以降の世界記録および日本記録の推移を見ていくことにする。100m背泳ぎ、200m背泳ぎの推移をそれぞれ図7および図8に示した。
図7で100mの推移は、総体的にみて、時代と
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